鹿児島紡績所は日本初の洋式紡績工場
鹿児島市の磯地区は
薩摩藩主の
島津家のおひざ元です。
特に11代藩主の
島津斉彬が始めた
集成館事業の中心地になりました。
この場所には
集成館事業で行われた
数々の事業の跡が残っています。
紡績を重要と考えていました。
集成館事業の中でも、
重要と考えられていたものが、
紡績事業でした。
その紡績を行っていた場所が、
鹿児島紡績所でした。
今は鹿児島紡績所の、
建物は残っていませんが
敷地だった場所に碑があります。
鹿児島紡績所跡の碑です。
鹿児島紡績所のそばに異人館。
鹿児島紡績所の、
関連の施設として、
異人館が残っています。
異人館は、
鹿児島紡績所の近くに、
建てられました。
異人館は、
紡績技術の指導のために、
招かれた技師達の宿舎でした。
イギリスの技師たちは、
異人館からこの紡績所までを、
行き来していたのです。
異人館は紡績技術者達の宿舎でした。
薩英戦争で力の差を痛感。
集成館事業を進めていた、
島津斉彬が急死した後に、
間もなく薩英戦争が勃発します。
薩英戦争で、
西洋との力の差を、
痛感しました。
すると戦った相手国から、
技術を学ぼうとしました。
ここが薩摩のすごさと思います。
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島津忠義が作りました。
第12代藩主の島津忠義は、
イギリスの紡績機械メーカーの、
プラットブラザーズ社から輸入します。
紡績機械を輸入して、
日本で初の、
洋式紡績工場を作ります。
操業が始まると、
イギリスの技師たちが、
職人達に技術指導を行いました。
当時は200人近くの職工が、
働いていたといわれています。
かなり大規模な工場だったようです。
日本で初の洋式紡績工場でした。
全国に紡績技術が広がる。
ここで指導を受けた職工たちが、
やがて日本全国に散り、
紡績の知識や経験を伝えていきます。
これが日本の紡績業の、
基礎を築いていったのです。
ここ薩摩から、
大阪の堺紡績所や、
富岡製糸場へと広がっていきました。
この鹿児島紡績場が、
日本の紡績の、
発祥の地といってよいでしょうね。
今では碑が残るのみですが、
鹿児島紡績場に、
思いをはせてみてはいかがでしょうか。
ここから全国に紡績が広がりました。
鹿児島紡績所跡
鹿児島市吉野町9688-3
カゴシマシティービュー
「仙巌園前」下車徒歩5分
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