南洲翁宅地跡は共研公園。
JR鹿児島中央駅の東口を降りると
目の前に真っ直ぐに伸びる
「ナポリ通り」と呼ばれる道があります。
鹿児島市と
姉妹都市であるナポリから
ナポリ通りと名付けられました。
その通りを桜島に向って
200メートル程歩きますと
共研公園があります。
西郷隆盛の屋敷があった公園。
この共研公園は、
西郷隆盛の屋敷があった所です。
今は、市民の憩いの公園になっていて、
多くの方が利用しています。
屋敷は残っていませんが、
「西郷南洲翁宅地跡」の碑と、
案内板がひっそりと建っています。
西郷南洲翁宅地跡は今は共研公園です。
西郷さんは生涯でいつくかの屋敷に。
西郷隆盛は、
生涯でいくつかの屋敷に住んでいます。
下鍛冶屋町(現在の加治屋町)にあった、
下級藩士の屋敷に生まれます。
ここで青年期までを過ごした後、
ここの上之園町の屋敷に移ってきます。
武屋敷にも住んでいました。
西郷さんは、
新政府樹立後、
征韓論で破れて鹿児島に下野します。
下野した西郷さんは、
武町の武屋敷に住むことになります。
ここを初めいつくか屋敷を移り住みました
西南戦争で亡くなるまでは、
この武屋敷で暮らしました。
また武屋敷の他にも、
武岡にも野屋敷をつくり、
畑を耕していたそうです。
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上之園の屋敷の頃が波乱万丈。
そんな屋敷の中でも、
この上之園の屋敷に住んでいた時期が、
西郷さんの人生で波乱万丈だった時です。
宅地跡の説明板によると、
この屋敷に移ってきたのは、
西郷さんが29歳の頃です。
解説板に詳しく書いてありますよ。
この屋敷では、
弟達の結婚式もおこなわれたり、
西郷さん自身もイト夫人と結ばれています。
そんな幸せの時期もありましたが、
引き立ててくれた藩主の、
島津斉彬(しまずなりあきら)が、
急死します。
また安政の大獄で、
負われる身になった僧の月照を、
保護できず入水自殺を図ります。
生き返った後には、
離島に島流しに会います。
その後、呼び戻されてからは、
薩長同盟を結び、
江戸城の無血開城など、
明治維新の立役者となります。
盟友、坂本龍馬も泊まりました。
また、志しを同じくする、
坂本龍馬も薩摩を訪れた際に、
この屋敷に泊まっているようです。
その時の逸話が、
伝えられています。
坂本龍馬が泊まった日に雨が降り、
「雨漏りがひどい」と、イト夫人が、
文句を言っていたという話。
また、イト夫人に、
古いフンドシを欲しがった時。
西郷さんが、
「お国のために命をかけているのだから、
新しいフンドシにしてくれ」と、
言ったという話などです。
西郷南洲翁宅地跡を訪ねてみてくださいね。
この西郷屋敷に住んでいる頃に、
西郷さんは日本の夜明けのために、
頑張ったのですね。
鹿児島中央駅周辺に立ち寄られたら、
この西郷南洲翁宅地跡を訪ねて、
西郷さんの生涯に思いをはせてみませんか。
西郷南洲翁宅地跡(共研公園)
鹿児島市上之園町14
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