帯迫鎮守神社はお石神社とも呼ばれる安産の神社です。
帯迫鎮守神社に参拝してきました。
鹿児島市街地から離れた郊外で、
吉野台地周辺のまち歩きしています。
吉野町の帯迫にある神社に来ました。
帯迫鎮守(おびざこちんじゅ)神社です。
鎮守様を祀る神社ですが、
周辺の人々からはお石様と呼ばれ、
安産のご利益がある神社です。
【投稿日 令和3年5月13日】
大石様河という場所に鎮座します。
帯迫鎮守神社が鎮座するのは、
鹿児島市吉野町の帯迫にある、
大石様河(おおいしさまかわ)です。
大石様河という場所の信号です。
大石様河とは変わった地名ですが、
ちゃんとバス停の名前になっているのですよ。
もちろん信号も大石様河です。
その四つ角にデカイ看板に、
帯迫鎮守神社の名前があります。
この看板の先に駐車場がありますよ。
帯迫鎮守神社のデカイ看板があります。
帯迫鎮守神社の参道と鳥居。
デカイ看板の先に、
帯迫鎮守神社の参道があります。
住宅の隣りの軽い坂道を進みます。
帯迫鎮守神社の参道を進みます。
20メートル程すすむと、
こじんまりとした鳥居があります。
鳥居の扁額(へんがく)には、
鎮守神社の文字が書かれていますよ。
鎮守神社の扁額がある鳥居です。
帯迫鎮守神社の境内です。
参道を登ると、
帯迫鎮守神社の境内に出ます。
意外に広さを感じました。
奥に拝殿が見えます。
拝殿は外に開け放たれた、
開放的な感じの拝殿でした。
拝殿も境内の庭も、
お掃除が行き届いていました。
氏子さんやご近所の方から、
大事にされているのでしょう。
帯迫鎮守神社の境内と拝殿です。
帯迫鎮守神社の由緒書きです。
由緒によると創建ははっきりしていません。
もともと島津藩の神社で、代々の、
藩主の崇敬が深い由緒ある神社です。
藩政時代には、吉野の奥に、
藩営の馬の放牧場があったそうです。
その数400頭の馬が放牧されていました。
帯迫鎮守神社の由緒書きです。
放牧された馬を一か所に集める、
馬追いの日は、藩主自ら訪れたそうです。
藩が主催する賑やかな行事でした。
この日は、鎮守神社に、
吉野の近隣から人々が集まり、
五穀豊穣を祈願するお祭りでした。
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境内には様々な祠があります。
帯迫鎮守神社のご祭神は、
天照皇大神(アマテラススメオオカミ)
天児屋根命(アメノコヤネノミコト)です。
帯迫鎮守神社の拝殿で参拝しました。
他にも様々な古い祠があり、
昔から鎮守神社が近隣の方々の、
心の支えだったことがうかがえます。
さらに奥には慰霊碑があります。
これは島津歳久公を慰霊するものです。
これがお石神社と呼ばれる訳です。
島津歳久公とは
島津歳久公は、島津4兄弟の三男で、
豊臣秀吉の島津攻めの際に、
最後まで抵抗した武将です。
そのために秀吉の命により、
追い詰められて竜ヶ水で自害します。
自害の際に病気で刀が持てず、
そこにあった石を使って切腹したので、
歳久公をお石様と呼ばれるのです。
島津歳久公(お石様)の慰霊碑です。
お石神社は安産の神様です。
歳久公が石で切腹する際に、
「出産する時もこのような痛みがあるのか」
と女性の出産を案じて亡くなったそうです。
そのために、いつしか、
島津歳久公が安産の神様になり、
お石神社にも安産のご利益があるのです。
戦国武将が安産の神様になるなんて、
面白いなあ、と思いました。
島津歳久公の慰霊碑の解説です。
金吾様と呼ばれました。
島津歳久公は、
治めていた領民からは、
金吾様と呼ばれて親しまれていました。
吉野での馬追いにたびたび訪れて、
領地に帰る際にこの鎮守神社に、
参拝のために立ち寄られたそうです。
そのためにこの鎮守神社に、
慰霊碑が建てられたようです。
そしてここの場所を、
大石様河と呼ぶようになったそうです。
河は近くの稲荷川のことらしいです。
金吾様は鎮守神社にたびたび立ち寄りました。
帯迫鎮守神社(お石神社)を紹介しました。
帯迫鎮守神社とお石神社、
島津歳久公がお石様であることを、
紹介しました。
なお歳久公が亡くなった場所には、
心岳寺が建てられましたが、
廃仏毀釈で廃寺になり、跡地には、
平松神社が建てられ歳久公を祀ります。
平松神社はこちらから
平松神社からは錦江湾が見えます。
帯迫鎮守神社(お石神社)
鹿児島市吉野町2593
駐車場 有り
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