薩摩義士の碑は鹿児島市の鶴丸城のそば。
鶴丸城の跡地周辺には
薩摩の歴史を物語る
史跡が数多くあります。
薩摩義士の碑もその一つです。
ここでは薩摩義士の碑と
薩摩義士について紹介しますね。
薩摩藩士の供養塔です。
薩摩義士の碑は、
大正9年に建てられたものですから、
史跡というには日が浅いと思われます。
碑の建立理由は、
江戸中期の薩摩藩が行った、
治水工事までさかのぼります。
その治水工事で、
多くの薩摩藩士が、
犠牲になりました。
薩義士の碑は、
その藩士の慰霊のために、
建てられた供養塔なのです。
薩摩義士の碑です。
薩摩藩が行った治水工事。
宝暦3年(1753年)徳川幕府は、
薩摩藩に木曽川・揖斐(いび)川・
長良川の治水工事を命じます。
幕府の目的は、
治水工事に多額の費用を使わせて、
薩摩藩の財力を弱めようとしました。
当時の薩摩藩は、
琉球貿易などで、
経済的な力をつけていました。
徳川幕府は、
薩摩藩に対して、
警戒心を持っていたのです。
平田靱負が治水工事を決断。
この命令に藩内では、
意見が色々出されました。
難工事を行い、
多大の犠牲を払うか、
それとも幕府の命令に背くか。
平田靱負の像(平田公園にあります)
その時に、
家老であった、
平田靱負(ひらたゆきえ)は言いました。
「命令を断れば、
幕府と戦になり、
多くの命を失うことになる。
他の藩の事とはいえ、
水害に苦しむ人々を救うことが、
武士の本分である。
この工事を行ったことが、
いずれは薩摩藩を救うことになる。」
とバラバラだった、
意見をまとめました。
多大な犠牲が払われました。
この治水工事は、
困難を極め、
多額の経費を費やしてしまいます。
また、幕府側の、
妨害や病気などで、
多数の藩士が亡くなり、
多大な犠牲を払ってしまいました。
薩摩義士のお墓は、
平田屋敷跡近くの大中寺にあります。
薩摩義士のお墓 松原山 大中寺
平田靱負は責任を負い自害します。
辛酸をなめた難工事は、
1年3か月をかけて、
ようやく完了しました。
完成した時は、
亡くなった薩摩藩士は、
80名以上でした。
最終的な工事費用は、
40万両(今の金額で200億円以上)に、
のぼったといわれます。
説明板に詳しく書いてあります。
平田靱負は、
多額の犠牲を出して、
藩に迷惑をかけた責任を、
負い自害しました。
薩摩義士の碑は山の形。
薩摩義士の碑は、
そんな薩摩藩士の、
犠牲を慰霊するものです。
またかれらの、
遺徳をしのぶものとして、
建てられたのです。
山の形のような供養塔は、
頂上に平田靱負の、
供養塔が建っています。
供養塔は、
将棋の駒の形にも見え、
異彩を放っています。
山の頂には平田靱負の供養塔。
薩摩義士の碑は鶴丸城のそば。
碑の場所は、鶴丸城跡に建つ、
黎明館の北側入口近くで、
城山への登り口にあります。
あなたも鹿児島のまち歩きで、
薩摩義士の碑まで行って、
薩摩義士達の、
遺徳をしのんでみませんか。
薩摩義士の碑
鹿児島市城山町7-2
(黎明館北側入口側)
鹿児島市電
「市役所前」電停から徒歩15分。
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