西南戦争の引き金になった鹿児島市の陸軍火薬庫跡です。

西南戦争の引き金になった陸軍火薬庫跡地。

 

鹿児島市には、
西郷どん(西郷隆盛)にとって、
一番、忌まわしい場所があります。

 

それは、
陸軍火薬庫の跡地です。
ここが西南戦争の引き金になりました。

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現在は草牟田墓地になっています。

 

その陸軍火薬庫の跡地は、
現在は草牟田(そうむた)墓地
なっています。

 

 

陸軍火薬庫の跡地に行ってきました。

 

 

その草牟田墓地の入口に、
陸軍火薬庫跡地の碑が建っています。
石碑の横には説明文があります。

 

説明文を読むと、
陸軍火薬庫を私学校の生徒達が、
襲撃した様子を伝えています。

 

 

陸軍火薬庫跡地の碑がありました。

 

 

西郷どんが私学校を設立します。

 

陸軍火薬庫を襲撃した、
生徒達が学んだ私学校とは、
下野した西郷どんが作った学校です。

 

士族の子弟たちを集め、
土地を開墾して農業を行い、
また学ぶことで人材育成を行ったのです。

 

鹿児島市の寺山開墾地跡には、
西郷どんが生徒達と一緒に、
開墾した場所に石碑が建っています。

 

 

西郷どんの足跡、寺山開墾地の記念碑。

 

 

各地で不平士族の反乱が起こります。

 

明治9年になると、
九州の各地で不平士族たちの、
新政府に対する反乱がおきます。

 

西郷どんのもとには、
西郷をしたう士族が集まり、
私学校は大きな勢力となっていました。

 

幕末後の近代化の過程で、
火薬製造所を持っていた鹿児島は、
新政府にとって危険な存在でした。

 

 

石碑の横の説明文が詳しく伝えます。

 

 

私学校の生徒が火薬庫を襲撃しました。

 

そこで新政府は、
火薬を秘密裏に運びだそうとします。

 

それを阻止しようとした、
一部の私学校の生徒達が衝突して、
火薬庫を襲撃したようになりました。

 

この襲撃事件が、
西南戦争が起こるきっかけに、
なってしまったのです。

 

 

ここにあった陸軍火薬庫を襲撃したのです。

 

 

西郷どんは大隅半島の根占で一報を聞く。

 

西郷どんが、
襲撃事件の一報を聞いたのは、
大隅半島の小根占(こねじめ)村でした。

 

かねてより、
ウサギ狩りにたびたび訪れていた、
西郷南洲翁宿所に届けられました。

 

ちょっ、しもた(しまった)」と、
絶句した西郷どんは、
急いで鹿児島に戻りました。

 

 

西郷南洲翁宿所が当時のまま残っています。

 

 

私学校には砲弾の跡が残る。

 

西郷どんでも、
私学校の生徒を抑えられずに、
西南戦争に突入してしまいます。

 

最後は鹿児島での市街戦になり、
西郷軍と西郷どんは、
城山で最後を迎えるのです。

 

私学校の跡地には、
いまでも政府軍の砲弾の跡が、
当時のすさまじさを語っています。

 

 

私学校跡に残る西南戦争の砲弾の跡。

 

 

草牟田墓地に行ってきました。

 

西南戦争は、
日本で最後の内戦であり、
鹿児島においては最大の悲劇でした。

 

その西南戦争の引き金になった、
陸軍火薬庫があった、
草牟田墓地に行ってきました。

 

墓地の入口には、
陸軍火薬庫跡地の碑が、
ひっそりと建っていました。

 

なお鹿児島市以外の、
西郷隆盛のゆかりの地はこちらから ↓

鹿児島県内の西郷隆盛のゆかりの地

 

西郷隆盛が良く泊まった大隅半島根占の家

 

陸軍火薬庫跡地
鹿児島市草牟田1丁目30番
JR鹿児島中央駅から車で10分
九州自動車道「鹿児島北IC」から車で7分
駐車場 墓地専用は3台程

 

 

 

 

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