鹿児島市上福元の懐良親王御所記念碑
え、この場所は御所の下になるの?
鹿児島市内をまち歩きしていると、
思わぬ所に歴史の足跡が残っています。
約680年前の出来事が、
地名として残っている、
一帯を歴史散歩してきました。
【投稿日 令和2年7月09日】
![](https://www11.a8.net/0.gif?a8mat=3BK032+64VWIY+1SOW+1HMAQP)
懐良親王御所記念碑を訪ねる。
その約680年前の出来事が、
わかる場所を訪ねてきました。
それは懐良(かねよし)親王御所記念碑です。
この記念碑がある場所には、
南北朝時代にさかのぼると、
天皇が住む御所があったそうです。
南北朝時代には、あの御所が、
この鹿児島にあったというのです。
ほんまかいな。(京都にいたことがあるので)
懐良親王御所記念碑に行ってきました。
懐良親王御所記念碑の場所。
では懐良親王御所記念碑は、
どこにあるかと言えば、
鹿児島市の御所ケ原という場所です。
御所ケ原(ごしょがはら)には、
鹿児島市の南部斎場があります。
その敷地の一角に記念碑があります。
南部斎場に御所があったのです。
御所があった原っぱと、
ちゃんと御所の名前が、
地名として残っているのですよ。
そもそもなぜ御所があったのか。
なぜ御所があったのでしょう。
時は鎌倉時代末期から、
南北朝時代の頃にさかのぼります。
南北朝時代に御所がありました。
当時は、朝廷が、
南朝と北朝に分かれて、
戦いを繰り広げていました。
その戦いは地方にも及び、
鹿児島でも地方の豪族達が、
南朝と北朝に分かれていました。
南朝側についていたのは、
谷山の豪族、谷山五郎隆信です。
北朝には島津貞久がつき、
お互いに戦いを繰り広げていました。
当時は豪族たちが南北に分かれていました。
懐良親王が鹿児島入りします。
劣勢になった南朝側の、
勢力を盛り返すために、
懐良(かねよし)親王が鹿児島入りします。
懐良親王が鹿児島入りしました。
懐良親王は、
後醍醐天皇の第9皇子で、
征西大将としてやってきます。
谷山五郎隆信は、
居城の谷山城に迎え入れます。
記念碑の解説板に書いてあります。
御所ヶ原に陣を構えます。
懐良親王は、
御所ヶ原に行在所(御所)を置き、
南朝として戦います。
御所ヶ原は、
谷山城にも近く、
周辺を見下ろす場所にありました。
御所は見晴らしの良い御所ヶ原にありました。
6年程とどまり戦いますが、
決定的な勝利を収めることなく、
肥後の菊池氏の下に移られます。
谷山氏が島津氏に敗れます。
その後に、
谷山氏は島津氏に敗れ、
谷山城を明け渡します。
御所ヶ原や谷山城を舞台に、
戦いが繰り広げられたのですね。
そして6年という期間でしたが、
ここ御所ヶ原に御所を構え、
戦っていた時期があったのです。
谷山神社に祀られます。
谷山城近くの谷山神社には、
懐良親王がご祭神として祀れています。
また谷山神社の境内には、
なんと谷山五郎隆信を、
祀る祠もあるのですよ。
地元谷山のために戦った、
懐良親王や谷山氏を大事にする、
谷山の人々の気持ちが伝わります。
御所の影響が周辺に残っています。
680年前の6年間ですが、
周辺の地名に面影が残っています。
まず御所があった場所に、
御所ヶ原の地名が残りました。
また御所ヶ原は高台ですが、
その麓の町にあるバス停は、
御所下という名前です。
御所下という名のバス停があります。
御所下のバス停横には
鹿児島市営の御所下住宅も。
この辺は御所の下とい場所なのです。
さらに御所保育園や、
御所苑という料理屋まであります。
御所保育園もありました。
御所ヶ原一帯は、
680年も前に御所があった事を示す、
地名が残っているのです。
日本料理店の御所苑です。
そんなことを考えると、
当時に思いを馳せてしまいました。
御所の杜北公園もありました。
谷山の歴史まち歩きでした。
今日は鹿児島市谷山の、
御所ヶ原一帯を歩いてきました。
御所があった御所ヶ原から、
谷山氏の居城・谷山城と、
懐良親王を祀る谷山神社を、
回って歴史探索をしました。
懐良親王御所記念碑
(鹿児島市南部斎場)
鹿児島市上福元町6945-1
電話 099-260-4900(南部斎場)
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