原五社神社は鹿児島市吉野町の桜島を見下ろす場所にあるのなぜ。
鹿児島まち歩きで、
鹿児島市吉野町に来ています。
上之原地区は桜島が望める場所です。
その上之原に鎮座する、
原五社(はらごしゃ)神社に参拝です。
ここは桜島に縁のある神社なのですよ。
【投稿日 令和元年11月9日】
原五社神社の場所。
原五神社があるのは、
県立吉野公園から県道21号線、
吉野公園線を寺山方面に進みます。
吉野公園と寺山公園との中間ある、
上之原地区の公民館の敷地の中に、
原五社神社が鎮座しています。
錦江湾と桜島が良く見えるので、
時々、車から降りて、
景色を楽しむ方もいるほどです。
吉野公園線を進むと原五社神社に到着。
小さな社が鎮座します。
車を公民館の駐車場に停めて、
原五社神社に参拝することにします。
原五社神社の鳥居の先には、
小さな社が鎮座しています。
原五社神社の、
文字が入ったのぼりもあり、
きれいに清掃されていました。
原五社神社が鎮座します。
桜島の人たちが建てた神社。
原五社神社の由緒書きによりますと、
この神社は、江戸時代に、
桜島の方々が建てたそうです。
安永八年の桜島の大噴火により、
桜島の黒神村の人たちが、
吉野へ移住したそうです。
その方たちが故郷をなつかしんで、
黒神村の腹五社神社を勧請して、
社を建てたそうですよ。
故郷を懐かしんで建てました。
桜島の腹五社神社。
現在の桜島の黒神地区には、
黒神埋没鳥居があり、
観光スポットでもあります。
この埋没鳥居は、
大正の大噴火で埋まりました。
この神社が腹五社神社です。
その昔、江戸時代の大噴火でも、
黒神村の人々も被災されて、
移住を余儀なくされたのでしょうね。
故郷が見える場所でした。
吉野上之原地区に、
移住した人々はここから、
故郷の桜島を眺めていたのでしょう。
移住した家族は7家族でしたが、
薩摩藩からこの地を与えられ、
土地を開拓して暮らし始めました。
多大な苦労もあったでしょうが、
故郷の桜島を眺め、腹五社の神様に、
祈りながら頑張ったと思います。
原五社神社に祈ったのでしょうね。
なお腹五社の腹は、
上之原の原を取って、
原五社にしたと云われています。
そんな事を思いながら、
原五社神社に参拝すると、
なんだか胸に迫るものがありました。
西郷隆盛開墾地も近くです。
腹五社神社の近くには、
西郷隆盛の寺山開墾地もあります。
西郷隆盛は、
明治維新を成し遂げた後に、
征韓論で破れて鹿児島に帰ります。
そして私学校を作り、
士族の子息たちと一緒に、
寺山の開墾に汗を流します。
ここも薩摩藩から、
与えられた荒れ地で
当時の吉野・寺山はこんな場所でした。
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ジオパークの案内板もありました。
腹五社神社の説明する、
ジオパークの案内板も別にありました。
黒神村の方が、
移住した事を説明して、
原(腹)五社神社が二つある、
理由を説明しています。
原五社神社をジオパークの視点から説明。
このジオパークって何でしょう。
ジオとは台地のこと、
パークは公園ですから、
台地の自然公園という意味です。
自然公園を教育や観光、
さらに地域振興へと、
役立てようとするものです。
原五社神社も桜島・錦江湾ジオパーク。
鹿児島県には三つのジオパーク。
実は、鹿児島県には、
三つのジオパークがあるのです。
霧島ジオパーク、
桜島・錦江湾ジオパーク、
三島村・鬼界カルデラジオパーク、
鹿児島のジオパークは、
火山の特異な地形が、
それぞれ共通しているのです。
桜島・錦江湾ジオパーク内にあります。
ここ腹五社神社は、
桜島・錦江湾ジオパーク内にあり、
火山の影響を受けた場所です。
桜島は長い歴史の中で、
様々な大きな噴火を繰り返しました。
桜島の昭和火口・
その中の安永の大噴火によって、
人々が火山とどのように、
関わってきたかを知る場所でもあります。
それで原五社神社ことを、
ジオパークの案内板のなかで、
説明しているのですね。
原五社神社から桜島が良く見えます。
今日も静かに桜島を見つめます。
吉野上之原地区に鎮座する、
原五社神社に参拝してきました。
原五社神社は、
今日も桜島が見える台地の上で、
人々を静かに見守っていました。
原五社(はらごしゃ)神社
鹿児島県鹿児島市吉野町6648
電話 099-223-0061(鹿児島県神社庁)
駐車場 有
JR鹿児島中央駅から車で約30分
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