【鹿児島歴史まち歩き】鹿児島市の平田靱負屋敷跡の平田靱負銅像があります。

鹿児島市の平田靱負屋敷跡の銅像。

 

鹿児島市は、
薩摩・島津藩の城下町でした。

 

鶴丸城の周りには
家臣達の屋敷が点在していました。

 

そんな中に平田靱負(ひらたゆきえ)
屋敷跡があります。
現在は平田公園になっています。

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平田公園は平田靱負屋敷跡。

 

公園には、
平田靱負の屋敷跡の碑があって、
ここが屋敷であったことがわかります。

 

平田靱負(ひらたゆきえ)の像が、
そこに平田靱負の、
説明板があります。

 

 

屋敷跡は平田公園になっています。

 

 

宝暦年間の木曽川治水工事。

 

平田靱負は、
島津藩の勝手方家老でした。

 

宝暦年間の、
木曽川治水工事の、
総奉行として地元では有名な人物です。

 

なぜ、有名かといえば、
地元の小学校では、
平田靱負は道徳の教材だからです。

 

 

薩摩義士・平田靱負の屋敷跡の石碑です。

 

 

平田靱負は民を救うこと決断。

 

徳川幕府から薩摩藩に、
美濃の国(今の岐阜県)を流れる、
木曽川等の治水工事を命令します。

 

当時の薩摩藩は、
琉球との貿易などで、
財力を蓄えていました。

 

幕府は薩摩藩の、
力を弱めようとしたのです。

 

 

治水工事のことが書いてあります。

 

 

薩摩藩はこの命令に憤慨します。

 

家老の平田靱負(ひらたゆきえ)は、

 

「もし断れば幕府と戦いになるだろう、
他藩であっても、人々の難儀に、
尽くすことも武士の本分である。

 

民を救うことが、
薩摩藩も救うことにもなるのだ。」
と藩士たちを説得します。

 

藩士は薩摩義士と呼ばれました。

 

薩摩藩は、
工事のために、
莫大な借金をしました。

 

また過労や伝染病による死亡や、
幕府への抗議で自害したり、
犠牲も多数出しました。

 

治水工事は1年3か月をかけ、
80名以上の犠牲と、
40万両(今の200億円以上)を、
費やしてようやく完成したのです。

 

 

平田靱負の像です。

 

 

平田靱負は、
多大な犠牲を出して、
藩に迷惑をかけた、
責任を負って自害しました。

 

他藩の人々を救うために、
犠牲になった薩摩藩士は、
薩摩義士(さつまぎし)と呼ばれます。

 

 

城山の入口にある薩摩義士の碑です。

薩摩義士の碑

 

 

薩摩義士の、
遺徳を偲んで、
薩摩義士の碑」が建てられました。

 

遺徳は今でも生かされています。

 

治水工事が縁で、
鹿児島県と岐阜県、
さらに鹿児島市と大垣市に、
姉妹盟約が結ばれました。

 

今でも毎年、
平田靱負の命日の5月25日には、
慰霊祭がこの屋敷跡の公園で行われます。

 

この慰霊祭には、
岐阜県からも参加されます。

 

平田靱負の言葉通りに、
薩摩藩は鹿児島市になった今でも、
岐阜の人々に感謝されているのです。

 

 

平田公園では慰霊祭が行われます。

薩摩義士の頌徳(しょうとく)慰霊祭。

 

 

子供達の教育にも役立っています。

 

また薩摩義士の話は、
道徳の教材になり、
子供たちの心の教育に役立っています。

 

平田公園で遊ぶ子供達をみながら、
そんな他人を思い遣る、
人間になってほしいな思うのでした。

 

 

平田公園は憩いの場所になっています。

 

 

薩摩義士のお墓も近くにあります。

 

なお、薩摩義士のお墓がある、
大中寺というお寺も、
屋敷跡から歩いて5分程の所にあります。

 

 

薩摩義士のお墓がある大中寺です。

松原山 大中寺

 

 

あなたも平田靱負の、
屋敷跡で薩摩義士たちの、
偉業をしのんでみませんか。

 

平田靱負屋敷跡(平田公園)
鹿児島市平之町6

 

 

 

 

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