福昌寺跡の島津氏歴代当主のお墓。
福昌寺(ふくしょうじ)跡を紹介します。
ここには薩摩藩主・島津氏の、
歴代当主や家族が眠るお墓があります。
福昌寺は島津氏の菩提寺でしたが
明治の廃仏毀釈で廃寺になり、
今では墓所を残すのみとなりました。
【投稿日 令和元年11月12日】
鹿児島市の福昌寺の場所。
福昌寺のある場所は、
鹿児島市の池之上町です。
現在の跡地には、
鹿児島市立玉龍高校・中学校の、
一貫校が建っています。
残されたお墓は、
学校の裏の敷地にあります。
ここは県の指定史跡になっています。
福昌寺跡は県指定史跡です。
福昌寺の山号は玉龍山。
福昌寺は曹洞宗のお寺で、
山号は玉龍山(ぎょくりゅうざん)です。
それで跡地の学校名が玉龍なのです。
島津氏の菩提寺であった、
福昌寺は南九州屈指のお寺で、
最盛期は1,500人の僧侶がいたそうです。
1,500人の僧侶といいますから、
そうとう大きなお寺だったのでしょうね。
南九州でも屈指の大きな寺でした。
福昌寺も廃仏毀釈で廃寺に。
その大きな伽藍(がらん)も、
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、
取り壊されて廃寺になりました。
鹿児島の廃仏毀釈は、
他県に比べると特に激しく、
各地にその爪痕が残っています。
なにせ藩主の菩提寺を、
壊すぐらいの勢いでしたから。
本当にもったいない限りですね。
難を逃れた石塔がありました。
島津氏歴代当主のお墓が残ります。
現在の福昌寺跡には、
墓所だけが残っています。
ここだけでも広いのですよ。
なにせ島津氏は長く続いた家系。
歴代当主と奥方の、
お墓だけでも沢山あるのです。
島津氏歴代当主の墓があります。
お墓の配置図もありました。
観光ボランティアの方もいて、
色々と案内していただけますよ。
お墓の配置図前で案内されました。
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島津氏初代当主のお墓はどこ。
実は、福昌寺に眠るのは、
6代目以降の島津家当主達です。
初代から5代目当主のお墓は、
出水市の感応禅寺にあります。
ここが島津氏発祥の地ですから。
初代当主の島津忠久(ただひさ)は、
鎌倉幕府から、薩摩、大隅、日向の、
地頭職に任命されます。
初めて鹿児島(出水)入りした、
島津忠久から5代目までの居城は、
木牟礼(きのむれ)城でした。
戦国武将の島津義弘のお墓も。
私の印象に深いのは、
戦国時代の島津家当主達です。
島津家の中興の祖と言われた、
伊作島津家の島津忠良(ただよし)は、
日新公と呼ばれ、島津いろは歌を残します。
日新公の子・島津貴久(たかひさ)は、
戦国大名島津氏の礎を築きます。
そして貴久の子供として、
島津4兄弟が生まれます。
兄弟は皆が優れた武将でした。
特に次男・島津義弘(よしひろ)は、
関ヶ原の戦いで武勇を残します。
この猛将も福昌寺に眠ります。
まあ島津義弘については、
晩年をすごした加治木の町にも、
分骨されたお墓がありますけど。
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薩摩の名君・島津斉彬のお墓。
さらに島津家で有名なのが、
薩摩の名君といわれた、
島津斉彬(なりあきら)でしょう。
島津斉彬は集成館事業で、
様々な近代化事業を発展させ、
西郷隆盛らを登用し改革しました。
お墓は夫人と並んでありますが、
名君にして何だか小ぶりな、
お墓のような気がしました。
薩摩の名君・島津斉彬のお墓です。
島津久光のお墓は大きい。
島津斉彬のお墓に比べて、
島津久光のお墓は大きかった。
なんと鳥居の先にあります。
島津久光のお墓は敷地も広いです。
斉彬の死後に、国父として、
藩政を引き継ぎますが、
明治維新に重要な役を果たします。
死去の際は国葬となり、
玉里別邸の黒門から、
国葬道路が作られました。
お墓も同様に大きなものとなり、
亡くなった時の権力の大きさが、
そのままお墓にも残っています。
鹿児島市の福昌寺跡でした。
島津氏の菩提寺であった、
福昌寺跡に行ってきました。
現在は墓所を残すのみでしたが、
島津氏の歴代当主が眠る場所、
何とも言えない空気が流れてました。
福昌寺跡には不思議な空気がありました。
福昌寺跡
鹿児島県鹿児島市池之上町48
駐車場 駐車スペース有り
鹿児島中央駅から車で15分
カゴシマシティービューの
「今和泉島津家本邸跡」徒歩10分
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