薩英戦争の本陣が置かれた千眼寺跡。
鹿児島まち歩きの歴史探訪で、
千眼寺(せんげんじ)跡を訪ねました。
千眼寺は、あの薩英戦争の時に、
本陣が置かれたお寺なのです。
【投稿日 令和元年7月8日】
鹿児島市常盤町にあります。
千眼寺跡があるのは、
鹿児島市の常盤(ときわ)町です。
背後に山がある住宅街にあります。
現在はお寺はなく一般の宅地です。
今は道路脇に石碑と説明板があり、
ここが千眼寺跡であることが分かります。
鹿児島市の千眼寺跡です。
薩英戦争の本陣になりました。
この千眼寺は、
薩摩藩とイギリスが戦争になった時に、
本陣として指揮をとった場所なのです。
千眼寺は禅宗のお寺で、
元々、荒田村にあったものを、
島津重豪(しげひで)が移築しました。
薩摩藩25代の当主が関り、
戦争時の本陣になる程ですので、
由緒あるお寺だったのでしょうね。
薩英戦争の本陣になったお寺です。
現在は住宅地になっています。
その千眼寺も、明治の、
廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)で、
寺は壊されて無くなりました。
現在は住宅になり、
家の前に標柱と説明板があります。
説明板は道路沿いにありますので、
見落とさないでくださいね。
私は注意して道路脇に車を停めました。
現在は住宅地になっています。
海から離れた千眼寺が選ばれました。
山沿いの千眼寺が、
本陣に選ばれたのは、
海から離れていたからです。
薩英戦争が勃発すると、
イギリス艦隊が錦江湾に入ってきます。
船には最新鋭の大砲を備えています。
海に近い鹿児島城は、
イギリス大砲の射程圏内でしたので、
千眼寺に本陣を置いたのです。
千眼寺跡の説明板です。
薩摩藩当主が指揮をとりました。
薩英戦争時の当主は島津久光です。
島津久光もここ千眼寺から、
藩士たちの指揮をとりました。
薩摩軍は、
祇園之洲(ぎおんのす)の砲台等から、
イギリス艦隊に応戦します。
薩摩軍の奮闘により、
イギリス艦隊は敗退しますが、
薩摩城下にも甚大な被害がでました。
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力の差を見せつけられます。
イギリス軍大砲の威力は大きく。
薩摩城下の被害は相当なものでした。
力の差を見せつけられた島津久光は、
イギリスに学ぶ必要を感じます。
そこで薩英戦争後に和解を結びます。
そして当時の国禁を破り、
若き薩摩藩士達を留学生として、
イギリスに秘密裏の内に送りました。
千眼寺跡で思いをはせました。
今日は薩英戦争の本陣になった、
千眼寺跡に行ってきました。
お寺はありませんでしたが、
石碑を見ながら、
当時の薩摩藩に思いをはせました。
あなたも千眼寺跡から、西郷家のお墓、
小松帯刀の屋敷跡を巡って、
鹿児島の歴史まち歩きをしませんか。
千眼寺跡(薩英戦争本陣跡)
鹿児島市常磐町2丁目4−3
駐車場 有りません。
市営バス「西田小学校前」バス停徒歩5分
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