祗園之洲砲台跡で薩摩の歴史を感じる。

祗園之洲砲台跡。

 

 

 

鹿児島市内には
歴史の足跡を見られる
場所がいくつかあります。

 

ここ祗園之洲公園
(ぎおんのすこうえん)

そんな薩摩の歴史を感じる場所です。

 

祇園之洲公園には
薩英戦争で使われた
砲台跡が残っています。

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稲荷川を挟んで石橋公園があります。

 

祗園之洲砲台跡の場所は、
稲荷川を挟んで、
石橋記念公園と隣接しています。

 

石橋記念公園には、
江戸後期に薩摩藩が作った、
石橋が移設されています。

 

合わせて見ると、
薩摩の歴史を、
より感じることができますよ。

 

 

お隣に石橋記念公園があります。

石橋記念公園。

 

 

列強のアジア進出に備えました。

 

もともと、祗園之洲一帯は、
薩摩藩主、
島津斉興(しまずなりおき)が作りました。

 

祗園之洲は、
稲荷川の河口を埋め立て、
兵士の訓練施設にした場所でした。

 

錦江湾の周りに砲台を設置。

 

その後、島津斉彬(しまずなりあきら)は、
列強のアジア進出に備えて、
錦江湾の各地に砲台を作らせました。

 

祗園之洲にも作られ、
祗園之洲砲台の台場ができました。

 

 

大砲をすえられた石垣が残っています。

 

 

ここに据えられた大砲は、
磯にある集成館で造られた、
自前の大砲でした。

 

それは、薩英戦争で、
使われることになりました。

 

 

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イギリス艦隊との戦いでした。

 

文久3年(1863)7月に、
薩英戦争が起こります。

 

その前に起こった生麦事件の、
賠償を求めてイギリス艦隊が、
7隻が錦江湾に入ってきました。

 

その後、薩摩藩と、
イギリス艦隊との、
砲撃戦が繰り広げられます。

 

この祗園之洲砲台も、
激しい戦闘の場所になりました。

 

祗園之洲砲台跡は、
当時の薩英戦争を静かに語ってくれます。

 

 

錦江湾に入ったイギリス艦隊と戦いました。

 

 

薩摩はぼっけもんでした。

 

それにしても、一つの藩が、
当時の強国と戦ったというのですから、
薩摩は「ぼっけもん」だったのですね。

 

ぼっけもんとは、鹿児島弁ですが、
「前向きで勇気ある向こう見ずな人」と、
私的には、そのように解釈してます。

 

そんなぼっけもんの気風を、
密かに誇りにも思っているのです。

 

 

ぼっけもんは大国イギリスと戦いました。

 

 

薩英戦争は生麦事件が発端。

 

祗園之洲砲台跡のそばには、
薩英戦争の記念碑も建っています。

 

記念碑の上には、
不思議なカタチの、
モニュメントが付いています。

 

これは、薩英戦争の発端になった、
生麦事件に由来しています。

 

記念碑の上には不思議なものが・・・

 

 

生麦事件とは、
生麦村(現横浜鶴見区生麦付近)に、
島津久光の行列がさしかかった時。

 

薩摩藩主の行列と、
馬に乗ったイギリス人との、
間に起こった殺傷事件である。

 

このモニュメントは、
その行列に使われていた槍が、
モチーフなんだそうですよ。

 

 

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西南戦争で戦った官軍の慰霊塔も。

 

他には、西南戦争の、
官軍戦没者慰霊塔があります。

 

西南戦争は、
鹿児島市の城山が、
最後の激戦の地になりました。

 

官軍、薩摩軍、
合わせて多数の戦死者を出しました。

 

 

西南戦争の苦悩の像がある慰霊塔。

 

 

官軍兵士は、
鹿児島に埋葬されましたが、
のちに西南戦争100年を記念して、
慰霊塔が建てられたのです。

 

薩摩軍は、
総大将の西郷隆盛と、
ともに南洲墓地に葬られています。

 

岩永三五郎の像も。

 

また岩永三五郎の像もあります。
岩永三五郎は肥後の名石工です。

 

お隣の石橋記念公園にある、
石橋をつくった人物です。

 

薩摩藩に招かれ10年近く薩摩に留まり、
甲突川にかかる五石橋を始め
多くの橋を作りました。

 

 

肥後の名石工・岩永三五郎の像。

 

 

薩摩の歴史に触れて下さい。

 

このように祗園之洲公園は、
砲台跡を含めて薩摩の、
歴史を垣間見るには良い場所です。

 

多くの歴史ファンが訪れますよ。
あなたも鹿児島のまち歩きで、
祗園之洲砲台跡に寄ってみませんか。

 

祗園之洲砲台跡(石橋記念公園と隣接)
鹿児島市祇園之洲町
駐車場 100台(石橋公園内)

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