【島津斉彬の集成館事業】鹿児島造船所は造船大国・日本の始まりです

鹿児島造船所は日本造船事業の始まり

 

鹿児島市の磯地区には、
島津斉彬(しまずなりあきら)
進めた集成館事業の跡があります。

 

集成館事業とは
西洋列強に対抗して軍備を整え、
国を豊かにしようとしたことです。
そこで始めたものが造船事業です。

 

ここでは日本初の
洋本格的な洋式軍艦である
昇平(しょうへい)丸が作られました。

 

スポンサードリンク

 

磯地区に造船所を作りました。

 

国を豊かにするために、
様々な産業をおこしましたが、
その産業の中に造船がありました。

 

造船事業のために、
磯地区に造船所を作ったのです。

 

 

磯にある造船所の跡の碑。

 

 

昔から船を使っていました。

 

元々、薩摩藩は、
琉球や離島との行き来に、
船を良く利用していました。

 

江戸末期になると、
西洋列強の船が、
琉球にもやってくるようになりました。

 

島津斉彬はそんな外国船に、
脅威を感じるとともに、
同様な船の必要性を感じていました。

 

そこで、斉彬はこの磯に、
造船所を建設したのです。

 

 

造船所跡の案内文。

 

 

造船所は、
南北100メートル、幅20メートル、
深さ3メートルの大きさでした。

 

苦労して船を作りました。

 

造船所では、造船技術の洋書や、
洋式の船の絵図を、
取り寄せて研究と開発を行いました。

 

資料が少なくて苦労しましたが、
やがて初めての洋式帆船である、
伊呂波丸(いろはまる)を完成。

 

 

ここで日本初の船を作ったのです。

 

 

また、洋式帆船のみならず、
蒸気機関の研究も行いました。

 

これも十分な資料がなかったけど、
何とか完成させました。

 

これが、日本で初の蒸気船
雲行丸(うんこうまる)
誕生しました。

 

 

 

スポンサードリンク

 

 

 

洋式軍艦の昇平丸を作りました。

 

さらに、この磯だけではなく、
桜島でも造船所が作られました。

 

本格的な洋式軍艦である、
昇平丸(しょうへいまる)が、
作られました。

 

後に幕府に、
この昇平丸を献上しました。

 

日の丸を日本の船印に。

 

また、この洋式軍艦を外国船と、
区別できるようにする、
必要がありました。

 

そこで島津斉彬は日の丸を、
日本の船の印にするように、
幕府に提案しました。

 

幕府もその必要を認めて、
日の丸を日本全体の、
総船印(そうふなじるし)
にしました。

 

 

島津斉彬が日の丸を提案。

 

 

造船大国・日本が始まる。

 

薩摩は、
日本で初の洋式帆船、
蒸気船、洋式軍艦をつくりました。

 

さらに日本の国旗である、
日の丸の制定にまで、
関わっていたのです。

 

今は、
造船所の跡地は、
跡地の碑が残るのみです。

 

しかし、この場所から、
造船大国・日本が始まったと、
思うと何だか感慨深いです。

 

 

この地から日本の造船が始まりました。

 

 

造船所跡の碑
鹿児島市吉野町(異人館のそば)
カゴシマシティビュー「仙巌園」
下車徒歩5分

 

 

 

 

 このエントリーをはてなブックマークに追加 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スポンサードリンク

 

 

 

かごしまのその他の、

観光情報サイトはこちらから。

鹿児島ご朱印ボーイ
鹿児島、他の神社仏閣の御朱印を紹介。

鹿児島ご朱印ボーイ 南九州寺社巡り

鹿児島の歩き方
鹿児島県内の観光ガイド情報です。

鹿児島の歩き方  観光ガイド情報

かごしまの路面電車
鹿児島市の路面電車の情報です。

鹿児島市の路面電車 かごしま街案内

 

スポンサードリンク