鹿児島市の私学校跡に残る西南戦争の砲弾の跡。

私学校跡には西南戦争の砲弾。

 

明治の初期に
鹿児島県内に作られた
学校がありました。

 

それは、私学校と呼ばれましたが
のちの西南戦争の
原因にもなってしまいました。

 

その私学校跡には
西南戦争の砲弾の跡
はっきりと残っています。

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私学校のあった場所は。

 

私学校の場所は、
鶴丸城(鹿児島城)跡地と、
道路をはさんだ所にありました。

 

現在は、
鹿児島医療センターが、
建っています。

 

 

私学校の壁の跡です。

 

 

私学校は西郷隆盛らが作りました。

 

私学校は、明治7年に、
西郷隆盛たちが中心になって、
作られた軍事教練施設でした。

 

生徒数も一番多い時で800人程で、
市内に10の分校、
県内には136の分校がある大きな学校でした。

 

生徒は、
薩摩の士族たちでした。
学校では軍事教練を行っていました。

 

 

西郷隆盛達が作った私学校の門です。

 

 

学校を作った目的は、
不平士族の不満を、
抑えることであったと言われます。

 

私学校の生徒達が暴発しました。

 

当時の鹿児島には、
西郷隆盛が征韓論に、
やぶれて下野していました。

 

西郷の下野とともに、
新政府の動きに反感を持つ
薩摩士族が多かったそうです。

 

そんな不平士族を教育する学校でしたが、
鹿児島県も大いに支援したために、
日本政府も警戒していたとのことです。

 

激しい戦闘を物語っています。

 

政府との緊張関係の中で、
私学校の一部の過激な生徒たちが、
政府が管理する火薬庫を襲撃したのです。

 

このことから西南戦争が始まりました。
西南戦争は鹿児島の地で、
決戦を迎えます。

 

 

私学校には官軍の砲撃が始まりました。

 

 

この私学校跡も、
激しい戦闘の場所になりました。

 

 

すさまじい砲撃の弾痕です。

 

 

私学校跡の壁には、
当時の政府軍の、
すさまじい砲撃の跡が残っています。

 

 

 

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西郷は、西南戦争は反対であった。

 

火薬庫を襲撃した生徒たちに、
むかって放った西郷の言葉は、

 

おはんら、何たることしでかしたか
この言葉にあらわれています。
私学校の説明板に書いてありますよ。

 

 

西郷の言葉が説明板に書いてあります。

 

 

日本で最大・最後の、
内戦である西南戦争は、
鹿児島にとっては最大の悲劇となりました。

 

同郷の薩摩人同士が、
政府軍西郷軍に、
分かれて戦ったのですから。

 

近代日本の体制が整うための、
産みの苦しみともいえるでしょう。

 

私学校跡に激動の歴史を感じます。

 

そんな西南戦争の、
舞台ともなった私学校跡は、
正門石堀を残すだけです。

 

壁の弾痕が、
当時の様子を、
黙って伝えるだけです。

 

 

私学校の壁が歴史を語ります。

 

 

あなたも鹿児島のまち歩きで、
私学校跡で、激動の歴史を、
感じてみてはいかがでしょうか。

 

なお鹿児島市以外の、
西郷隆盛のゆかりの地はこちらから ↓

鹿児島県内の西郷隆盛のゆかりの地

 

西郷隆盛が良く泊まった大隅半島根占の家

 

私学校跡(現鹿児島医療センター)
鹿児島市山下町6-1
鹿児島市電「市役所前」〜徒歩5分

 

 

 

 

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