JR中央駅前の「若き薩摩の群像」。

JR中央駅前の「若き薩摩の群像」

 

 

 

鹿児島に
行ってみたいと思ったあなた。

 

JR鹿児島中央駅の、
東口から
降りてみてくださいね。

 

駅前の広場には
大きな塔があります。

 

その塔には
多くの若者たち
皆様をお迎えしていますよ。

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若き薩摩の群像がお迎え。

 

良く見ると何やら
明治初期の服装をしています。

 

かれらは、
薩摩藩の若者たちなのです。

 

これは、
若き薩摩の群像
呼ばれるモニュメントです。

 

鹿児島の、
玄関口のシンボルになっています。

 

 

若き薩摩藩の若者たちがお迎えします。

 

 

薩摩藩の英国留学生達です。

 

この「若き薩摩の群像」は、
薩摩藩が派遣した英国留学生達を、
モチーフにしています。

 

モニュメントの高さは、
12.1メートルもあります。

 

 

下で座っているのは五代友厚です。

 

 

鹿児島在住の彫刻家、
中村晋也氏によって、
昭和57年(1982)に制作されました。

 

 

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国禁を犯して命がけの留学。

 

でも英国に留学するって、
そんなに大変なことなの、
そう思いませんか。

 

今は、海外に留学なんて、
当たり前に行われていますよね。

 

でもかれらがイギリスに渡ったのは、
江戸時代の後期の頃で、
日本で初めての留学生団体でした。

 

しかも当時の江戸幕府は、
日本人の海外渡航を禁じていました。

 

ということは、
国禁を犯してまでの、
命がけの留学だったのです。

 

 

命がけの留学に旅立ちました。

 

 

薩摩藩の命令でした。

 

でも、なんのために、
そんなことをしたのでしょう。

 

しかも薩摩藩の、
藩命だったということです。

 

今であれば鹿児島県が、
グルになって重大な、
法律違反を行っていたのです。

 

 

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薩英戦争が英国留学のきっかけ。

 

それは、薩摩藩の事情によるのです。
薩摩藩は、文久3年(1863)に、
薩英戦争を起こします。

 

これだけでもすごいですよね。
一つの藩が、
大国イギリスと戦争するのですから。

 

薩英戦争では、
イギリス艦隊が、
錦江湾に攻めてきました。

 

イギリスの砲撃で、
薩摩の城下は、
甚大な被害を受けてしまうのです。

 

この時に、西洋文明との、
力の差を、
まざまざと見せつけられました。

 

 

薩英戦争では祗園之洲からも応戦しました。

祗園之洲砲台跡

 

 

文明の差に危機感を持ちました。

 

薩摩藩は、このままでは、
西洋に立ち向かえないと思ったのです。

 

そこで、薩英戦争の和解後、
イギリスから西洋文明を、
学ぼうとするのです。

 

そして、慶応元年(1865)に密かに、
英国留学生たちを、
送り出したのでした。

 

 

薩摩藩はイギリスから学ぼうとします。

 

 

当時の薩摩藩は、
ただの藩ではなかったのです。

 

大国と戦争して、わずか2年後には、
戦った相手国に、
国禁を犯して
留学生を送ったのですから。

 

 

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日本の近代化の原動力。

 

留学生たちは、
帰国後、産業や外交、
そして教育など分野で活躍しました。

 

まさに、日本の、
近代化の原動力になったのです。

 

彼らの中には、
大阪商工会議所の初代会頭になった、
五代友厚(ごだいともあつ)
五代友厚の銅像は鹿児島市に二つ。

 

東京開成学校(現在の東大)の、
初代校長になった、
畠山義成(はたけやまよしなり)

 

初代文部大臣になった、
森有礼(もりありのり)などがいました。

 

また、
サッポロビール創始者の、
村橋久成(むらはしひさなり)

 

アメリカのぶどう王と呼ばれた、
長沢鼎(ながさわかなめ)
などもいたのです。

 

 

留学生たちは日本の近代化の原動力に。

 

 

そんな「若き薩摩の群像」の
留学生たちは、
鹿児島にお越しになった方々を、
今日も鹿児島の玄関口にて、
お迎えしています。

 

あなたも鹿児島まち歩きの途中で、
鹿児島中央駅周辺に来られたら、
「若き薩摩の群像」に、
会いに来てくださいね。

 

若き薩摩の群像
鹿児島市中央町 
(JR鹿児島中央駅東口前)

 

 

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